では、 私たちが生きている時に出来る事はあるのでしょうか?
例えば、地獄にまつわる話しに関して、タイ王国では、こんな話があるそうです。
あるタイのお婆さんが実際に地獄に行った話の一部です。 作り話ではありません。
(このお婆さんは、1度は死ぬのですが、地獄の様子を、こちらの世界で伝えるために、生き返りを許されました。)
そして、このお婆さんが見て来た話は、タイのアチャン・バラミーターンが、地獄のタウエースワンから聞いた話とほぼ同じ内容だったそうです。 そういう理由から、そのタイのお婆さんの話をします。
地獄の一つに立ちっぱなしの地獄というモノがあるそうです。
横一列に死んだ人達が何人も立たされて、疲れても座る事も許されない地獄だそうです。
年老いたおばあちゃんでも例外なくです。
しかし、中には 時々ですが、 皆が座れなくて苦しんでいるのですが、その場所に椅子が一つだけスーット出てきて、 そのお婆ちゃんには、椅子に座って一時に休憩を取る事が許されます。
ずっと立ちっぱなしですから、 当然疲れ果ている訳で、椅子に座る事が一時的にでも許される事は、とても有り難い事です。
では、なぜ立ちっぱなし地獄で椅子が出てきて、休憩を取る事が、このお婆ちゃんは許されて、他の人は許されないのでしょう?
それは、 その人に徳分があるのか? ないのか? の差だそうです。
地獄でも、徳分があれば、大目に見てもらえ、優遇された立場となります。
徳分を積む行為が、大きく関係するのが、地獄の生活。 例えば、お婆ちゃんの場合は、生きているお婆ちゃんの子供や孫が、死んでしまったお婆ちゃんに徳を分け与える方法を知っていたので、辛い地獄生活の中に徳という差し入れをする事が出来て、その結果、辛い中でも暫しの休憩の椅子が与えられたとの事です。
また、 別の話がタイにはあるそうです。
それは、喉がカラカラに渇いている地獄にいる人達の話です。
前述の立ちっぱなし地獄と同じような事が、この喉のカラカラ地獄でも起こります。
そこにいる誰もが喉がカラカラの状態です。 そこに、ある女性には水の入ったコップが差し入れがありました。 水を飲み終わった後、その女性は隣の人が、たまたま生前に自分の知り合いの男性だったので、可哀想に思い、その水の入ったコップを飲みようにと渡します。 しかし、その男性がいくら水を飲もうとしても水がコップから出て来ません。 いくら隣の男性が頑張って飲もうとしても、一滴も出てきません。出てきたと思ったら、皮膚が焼け爛れる程の熱湯で逆にもっと苦しい思いをするばかりです。
なぜ、最初の女性は飲めて、隣の男性は水を飲めないのでしょうか?
その違いは生前に積んだ徳分の違いだそうです。
最初の女性は、生前努めて、神仏等に対して水・ジュース・食事などの供物を捧げて来ました。 (タイ王国などでは、ここにお坊様への托鉢も含まれる事でしょう。)
しかし、飲めなかった男性は、生前に水・食べ物などの供物を神仏等に捧げる事は皆無でした。
死んでからは、生前の社会的地位、お金、服、宝石、車、家などの財産、そして人間関係は持っていくは出来ません。
その中で、次の世界へ持っていけるモノ(もしくは来世に持ち越すもの)は、2つだけあるそうです。
次に生まれ変わる時も、この2つだけは、 来世に持ち越しする事が出来るのです。
「地獄という魂のカルマ解消が一部出来る場所」について:
死んだ後、タウェースワンのご加護により、魂は無事に地獄という、いわる死後の世界でのカルマ解消施設に有り難くも収容されます。 そこでは、魂ごとに、地獄のどのレベルであるかの地獄の沙汰が下されます。(この内容については、閻魔大王が沙汰が申し渡すシーンがあり、日本人なら容易に想像が出来ると思われます。)
そこでは、悪いカルマを行う事が、如何に大変な目にあう事であり、身にしみて悔い改める事が出来るようにしてあります。 地獄の仕打ちが、魂に刻み込まれて行くようです。
もちろん相当な徳分と、最小限の悪いカルマであれば、テワダーの世界へ、また莫大な徳分と最小限の悪いカルマであれば、神への世界へも行けます。
しかし、酒を飲んだり、不適切な男女関係をもったり、ギャンブルをしていたり、遊びで生き物を殺す釣りの行為などして、徳分を積む行為に積極的でなければ、ほぼ地獄行きでしょう。
では、今世では、悪いカルマを積まないためには、どのような事に気をつければよいのでしょう?
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悪いカルマを積まないためには、お釈迦様は下記5つの事が大切と説かれました。
いわゆる五戒です。
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(注意事項: YOUTUBEで描かれる地獄については、このサイトではお薦めします。 しかしながら、同じYOUTUBE掲載者が取り扱う他の題材については、必ずしも推奨している訳ではありません。 予め注意事項として申し添えておきます。)
この5つは何を指し示すものでしょう?
これらの5つが、 悪いカルマの原因になるものです。
(結果、相手を傷つける、自分を傷つける行為となるからです。)
例えば、2番目のお酒は、長い時間をかけて自分の体を傷つける行為であり、結果的に自殺行為となります。
最近は、急性アルコール中毒で大学生が死亡する事件も少なくなりました。 しかし沢山のアルコールを一気に摂取すれば、ご存じのように急死します。 アルコール摂取を死ぬほど大量に一度に摂取するのか? それとも、じわりじわりと、長い年月をかけて、(今の日本社会で、お酒は百薬の長として勧められるようにして薬と思って飲む人もいますが)、実は自分の体を傷つけて、50歳、60歳、70歳など程度の差こそあれ、最後には肝臓等にに負担をかけて死んでいくのか? というだけの違いだけです。
お釈迦様は、飲酒を長い人生をかけて自分を自殺に追い込む行為であると言われています。
地獄では、 ちなみに、お酒は、黒い亜硫酸や煮えたぎった鉄のような物質となり、皮膚がその液体に触れるだけで、焼け溶けていくそうです。
(さて、話は少しズレますが、 現生の苦しみと、地獄の苦しみ、 どちらが苦しみとして耐えがたいものであるのでしょうか?
答えは、圧倒的に地獄の苦しみだそうです。 その苦しみを比較するならば、現世の苦しみが、石一個分の大きさとしたなら、地獄で受ける苦しみは山一つ分。比較の対象が難しいのですが、この位に大きく違うのだそうです。
この事からも、できる事なら、カルマ解消を含め、現世で行うカルマ解消の方が、実は相当 楽であるという事だそうです。
(現世で行うカルマ解消は、時として辛く感じますが、地獄の苦しみに比べたら相当楽である、という言葉は、個人的には、深く響いた言葉でした。 )
ここで、お酒の事に、話を戻します。
地獄の呵責として、自分が好きで飲んできたのだからという理由もあり、 呵責する数人の係のものから、地面に体を押さえつけられ、 口元に無理矢理流し込まれます。 お酒ではなく、 亜硫酸をです。 そして、その度に、大火傷を負う苦しみと同じように、内臓が溶けタダレ、肋骨なども溶け始める責めを受けます。 その際の苦しみは、足先から頭のてっぺんまで、全身の痛みは、現世ではあり得ないほどの、痛みを伴うそうです。 痛みという度合いから見ると、地獄の痛みは、生きている間では想像出来ない程の苦痛が伴うそうです。 それが、生前飲んだ分だけ、繰り返し行われるそうです。
様子が描かれています。
(地獄、”奈落”の底の語源はNARAK)から来ています。
You can see what look like a hell "Narak" for
drinking alcohol habit people in Youtube.
現世ならば、肉体的に苦しい思いをすれば、気絶さえすれば意識は飛んでしまい、ある意味とても楽な状態です。
しかし、地獄では意識が無くなる事はありません。 痛くても、気絶して意識を無くすことも許されないのです。 肉体が酒を飲んだ報いとして、亜硫酸で体が溶けるまで、その苦しみを受けるわけです。 そして、その内臓、骨などが溶けてしまったら、 本人の意思とは関係なく、その肉体は直ぐに、再生させられます。 その繰り返しです。
もちろん、地獄にいる間は、地獄で痛みと共に死んだ記憶も残るそうです。 要は地獄では肉体が溶ける前に、自分の身に何が起こった事もわかる樣にしてあります。
先ほどのお酒の話に戻しますが、自分はもう飲みたくないと拒絶しても、再び体を地面の上で、刑罰を与える役目の何人かで無理矢理、押さえつけられます。 そして立て続けに、お酒の代わりに亜硫酸のような物体を無理矢理に口元に、地獄の呵責として入れられるわけです。 そのように、 魂に飲酒する事が、どれだけ、いけない事なのかを嫌という程に覚えさせるわけです。 ようはこのようにして、深くその魂に刻み込まれるわけです。
明けても暮れても、ただ地獄の呵責のみが、延々と続く訳です。 余程で無い限り、なぜ自分がこのように目に遭う必要があったかもすら考える余裕などないそうです。 普通、人々は、ただ地獄の呵責のみに、恐れおののく、耐えがたい苦痛だけが続きます。 苦しみ。もがき、途切れる事もなく、何度も何度も、自分が行った分だけ繰り返し行われる。 それが地獄です。 まさに、逃げる事が出来ない地獄絵図そのものが、そこ(地獄)にあるそうです。
もちろん、五戒以外にも、 賭博【ギャンブル】をする報い(โทษของการพนัน)もあります。常にギャンブルをしていた人は、五戒を破るよりも罪が重いとされるそうです。
その他に、嫉妬の心、執着、煩悩、必要最低限以上となる欲=欲望も、自分自身を滅ぼすモノとなるそうです。