煩悩と生まれ変わりの輪について

 私たち日本人は、足るを知る事を大切として来ました。 もっと、もっとという俗物的な生活を恥としてきました。 自分の矩をこえない事とする社会が昔はありました。

 

 煩悩、執着を捨て去る事こそが、人生において成功であるという考え方が昔はしっかりとありました。  

 

 ところが、今や世界中に、もっと、もっとという考え方が良しとされる風潮があります。

もっと経済成長が必要という言葉が、その最たるものではないでしょうか?

 

 もっと、もっとという欲望には、どんなモノがあるのでしょうか?

 

もっと物質的に恵まれたい、

いい車が欲しい、立派な家が欲しい、

高級ブランドが欲しい。

もっと、おいしいモノをもっと食べたい、飲みたいも良く考えてみると実は煩悩です。

 

もっと会社や組織で上の立場に立ちたい、

会社や組織をもっと、もっと大きくしたい。 

名誉が欲しい。 

もっと偉くなりたい。 

 

経済活動だけに重きを置き、たくさんお金を得た人が、今の社会では成功者と言われるようになってしまいました。

 

もっと自分の子供が(世俗的に)立派になって欲しい。

もっと子供が欲しい。

 

異性に持てたい。

人から賞賛して欲しい。 

 もっと周り人から良く思われたい。 

 

それ以外にも、自分こそが一番で、自分ほど偉い人間はいないという、隠れた煩悩もよくある話しです。(こうなると、自分より上の方の話しに耳を傾ける事もありません。  もちろん真理を説かれるイエス様や仏様の言葉の本当の意味を知り、実際に自分の中へと落とし込んで行く作業、すなわち成長していくことも難しい事となります。)

 

最後には、自分が神の如くなりたい、といった事さえ人間は考えてしまう程の煩悩がある場合さえあります。 

そして最後には人間であるにも関わらず、自分を神のように崇めて欲しい。 という欲さえ出て来る事もあります。

 

 もちろん生活をして行く上で、必要なモノを満たしていく事は大切な事です。

それは特に問題はないでしょう。 (たまには趣味で、いろいろな物を収集する、この気持ちもわからない訳でもありません。 しかし限度を知るという事が大切だとお話なのです。)

 

 しかし、もっと、もっと、という欲が強くなって行けば、それは文字通り、強欲となります。

 

 さて、ここから先に述べる事は、全員の人が理解するに少し難しいかもしれませんが、大切な事なので先を続けます。 ここから先に出て来る悪魔という言葉に多くの人が嫌悪感を抱くと思われます。 多くのカルト思想がそれを乱用したせいもある事でしょう。

 

 しかし、ここから先に書かれている内容はとても大切な事です。 

 

 誤解を生む可能性は十分にあるかと思われますが、是非お伝えしたいと思います。 海外の方には下記の事は、非常に受け入れやすい事柄ですが、日本では馴染みがないために、拒絶感が先に先行してしまう場合もありようです。 

 

 この人間の強欲につけいるのが、実は正に悪魔の存在そのものです。 悪魔達は、この人間の強欲さをとても美味しく感じるため、知らず識らずのうちに人間は付け込まれている場合があります。 その人間の煩悩が多いほど、悪魔には、その人間の魂の利用価値が多いという事です。

 

 煩悩や欲望の大きさが大きいほど、 その煩悩の大きい魂自体が、悪魔にとっては大きな活力源となるという事です。

 

 今まさに、世界全体を見てみると私たち人間は、知らずのうちに、悪魔が喜ぶ事をして、知らないうちに悪魔に荷担してしまっています。

 

 もし、足(たる)を知らず、もっともっと欲しい、という生活をしていったならば、 いずれは、その人間の魂は悪魔という存在に取り込まれます。 死んだ後は、そのような人間の魂は悪魔に食べられてしまいます。

 

 そうして人間の煩悩を活力源として悪魔の力は増して行くそうです。 そのように、煩悩が大きい魂ほど、悪魔からしてみれば、美味しく感じて、食べがいのある存在だそうです。 逆にタイのお坊様のように、家庭すらも捨てた人間であれば、執着も無く、まったく美味しくない存在といえるでしょう。

 

 キリスト教などでは、その悪魔を撃退するのが大天使ミカエルであったり、ヒンディであれば、ドゥルーガやカーリーであったりします。 ハヌマン神やシバ神も、当然ながらしかりです。

 

 仏教の叡智が今なおも深く存在するタイ王国では、地獄を統治するタウエースワンが、悪魔を撃退し、私たち人間の魂を悪魔から救って下さる大切な存在と広く認知されています。 なぜなら、タウエースワンのご加護により、死んだ時に、身体から抜け出た魂を地獄へと無事に送り届けて下さるのがタウエースワンだからです。 悪魔が人間の魂を食べないように地獄という保護区で守って下さっている門番という役割もあります。

 

 一見、地獄というと、悪人だけが行かされる死後の場所のように日本人は錯覚しますが、それは真理ではないそうです。 実は地獄という場所は、その”魂の再教育の場所”であり、死んだ後で唯一カルマ解消が出来る場所。

 

 実は地獄こそが、魂に刻み込む事が出来る有り難い場所なのです。

 

 しかし残念ながら、 煩悩が大きすぎて神仏の存在など全く信じない、または自分にとって神仏とは利用できる便利なモノ程度で、神仏を心底敬う事が出来ない人間であったとするならば、どうなるでしょう?

 

 生前から悪魔に憑依され、死ぬ時には、魂は肉体を離れた瞬間に、悪魔にパックリとその魂は美味しく食べられて、その悪魔の力は更に増大していきます。   

 

 本人は知らずか知ってかは、わかりませんが、悪魔に魂を売った訳ですから、当然の報いとなってしまします。 それ以後は悪魔の餌食となり、生まれ変わりの準備をする地獄に行く事すら出来ません。 (その魂は、残念ながら、悪魔の栄養源になっている限り、生まれ変わりの環から外れてしまう事になります。) 

 

 そして、今世せっかく人間に生まれてきたとしても、積極的に徳分を積まないで、悪いカルマばかり積んだ人生ならば、 死後どうなるでしょうか?  もちろん地獄に行くだけではありません。

 

 地獄の刑期が終わり、その後に人間として生まれて来れるでしょうか?

 

それは、その人が今回の人生のカルマと徳分により、すべて来世にどのような形で生まれて来るかという話です。

 

よしんば、動物(畜生道)でなく、人間に生まれて来る事が出来たとしても、 このような徳分が大切である、という話から縁遠い場所(環境)で生まれて来ざるを得ないかもしれません。 その際には、カルマの話が徳分の話とは縁遠い社会の中で生きて行く訳です。

 

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まとめ:

 

煩悩が多い人間は、悪魔、特に大きな悪魔に付け込まれてしまった場合は、残念ながら生まれ変わりをする機会すらも奪われてしまいます。

 

悪魔でなく、人間自身の煩悩こそが、人間の敵といっても過言では無いかも知れません。

 

 

神が悪魔の存在を放置している訳でなく、 煩悩を多く持つ人間という存在自体が、知らずの識らずのうちに悪魔という存在を助長しているのが現状なのだそうです。 

 

(敵は外にいるのではなく、 その人間の中にある、そう言い換えても良いかも知れません。 だからこそ、叡智を知るという事はとても大切な事なのでないかと思われます。)

 

悪魔を助長するもしないも、実は人間次第

先ずは自分自身、どう生きていくのか、これこそが一番肝要である訳です。

 

そして、 地獄と天国の存在を信じる事が出来るならば、 今 出来る事は、 なるべく多くの徳分を積み、悪いカルマを減らす。 ここから、全てが始まります。